どれも面白い話だったが、詳しい内容は忘れてしまった。先生は最後に「とっぴんばらりのぷう」と言って締めてくれた。
ラジオ、映画が娯楽として重要な位置を占めていたころで、東京オリンピックや皇太子殿下御成婚を機にテレビが普及しだしたころであった。放送局はNHKと秋田放送の2局のみで、白黒だった。日中テストパターンと称する放送休止時間があるなど、放送時間は限られており、今とは比べ物にならない情報量であったが、それでもテレビは面白く、夢中になったものである。
マンガ雑誌は、週刊誌はまだなく、月刊誌であった。友達と回し読みをした。セリフを暗記してしまうほど、何回も読み直しをした。付録も楽しみであった。
そんな高度成長期。金のたまごは東京で暮らすため、秋田弁ではなく、共通語をしゃべれなければならなかった。方言は良くないもの。方言を使わず、共通語でしゃべりましょうという雰囲気であった。都会で暮らすためには秋田弁は捨て去るべきものであった。テレビ、ラジオは共通語の普及という点では絶大であった。
よって、先生の昔話は秋田訛りを残しつつも、「共通語」によるお話であった。
そして現在。「共通語」普及運動が奏功したのか、情報化時代のおかげか、今の秋田の子供たちは方言をほとんど話さない。というか話せなくなってしまった。「ごみを投げる」といったローカルな言い回しは残っているとしても。
いつか秋田弁がなくなってしまうのかと思うと、さみしさだけでなく、ある危機感を持ってしまう。
方言は先人が築き上げた文化であり、歴史そのものだからである。地名も然り。集落や集落に暮らす人々と共に歴史を刻んできた証人だからである。この貴重な文化遺産を失いたくない。
全国各地が共通語化した現代。どこへ行っても東京と同じになってしまったが、そんな必要はないし、それではつまらない。秋田には秋田ならではの特徴があってよい。
旅の魅力は、異質なもの(異文化)と接し、新たな発見をすることではないだろうか。秋田には他にはない伝統と歴史がある。秋田らしさに接してもらえることが、最高の「おもてなし」になるのではと思う。
そうした秋田らしさの一つが、秋田弁ではないだろうか。
観光は冒険ではない。豊かな自然、特産物、伝統文化に触れることはもちろん素晴らしいけれど、そこに暮らす人々がいて、その人たちとの交流がなければ、価値は半減するだろう。
そもそも、無人の秘境に出掛けるのは探検とは言っても、観光とは言わないだろう。美しい自然、町のたたずまい、そして文化遺産は、そこに暮らす人たちとともにあるからこそ意味があるのではないか。おいしい食事も、そこで作り育て、調理する人がいて成り立つもの。宿泊施設も、ガイドも地元の人がいてこそ成り立つ。
秋田の人はおもてなしが下手だという。下手なのではなく、慣れていないだけ。チャンスがなかっただけである。
秋田の魅力を秋田の言葉に添えて伝える。秋田弁で話すことで魅力は倍増するのではないか。
大好きな秋田弁に、市(いち)で売り子のお母さんが発する「だんなさん。はまってたんせ」(買ってくれませんか)という声掛けがある。短いのに丁寧な言い回しで、優しさにあふれている。ほんわりとした気持になり、つい買ってしまうのである。
秋田の食材も秋田の自然と、そこに暮らす人々が作り上げた逸品である。
例えば、山形や宮城では、秋の川原で芋煮会が盛んである。秋田では、余り川原で行うことはないものの、いものこ汁は他県に負けないくらいおいしいと思う。秋田のこだわりといえば、鶏肉を使い、ごぼう、マイタケを重用するうえ、芋の子は山内いものこに代表されるような、柔らかで粘り気のある芋の子をいただくことか。比内地鶏のスープを使えばなおおいしい。
県南の食材でご紹介したいのが、豆腐カステラ。豆腐を甘く味付けしカステラのようにしたお菓子である。素材の味を生かしたものとしては、なると餅も大好きである。秋田(特に県南)は甘口が好まれるようで、お酒は甘口が多かったり、納豆に砂糖をかけたり、赤飯に砂糖や甘納豆を入れるのは、そのせいかもしれない。
県魚であり、秋田を代表する食材であるハタハタは、乱獲がたたり、漁獲量が激減。一時は幻の魚になってしまったが、その後の資源保護により、再び食卓に戻ってきてくれた。
「しょっつる鍋」に欠かせない食材として有名であるが、個人的には12月の産卵期に獲れたてを鍋でいただくのが一番好きである。
最盛期には、きわめて安価であり、猫またぎとまで言われるほどで、まさしく庶民の味であった。箱買いし、食べきれないものは保存食として、塩、三五八、味噌などで漬けたり、ハタハタ寿司を作ったりしていた。
秋田の冬場の気候が、おいしいハタハタ寿司ができる条件に合っていたのであろう。どこの家でも奥さん方が腕を振るい、味はもちろん、彩りも美しいハタハタ寿司の出来映えを競い合っていたことが懐かしい。
秋田の冬は、雪が多く、寒く、日照時間が短いため、マイナスイメージが強い。しかし、雪は解ければ豊かな水流となり大地を豊かにしてくれる。雪には保温効果があり、冬場の野菜や果実の保存に最適で、雪の下の大根、白菜などは、瑞々しく甘みを増してとてもおいしくしてくれる。
こうした気候を利用し、農家では漬物作りが盛んであることはご承知のとおりである。漬物といえば「いぶりがっこ」が有名だが、大根の漬物としては、冬場(しかも一番寒い時期が一番おいしい)しか食べられない「なた漬け」は秋田の気候とベストマッチの漬物と思う。個人的にはパリパリの食感がおいしい「一本漬け」もお勧めしたい。
冬場ではないものの、美しい漬物としては、なすの菊花漬けも、是非ともご賞味いただきたい。
こうしてみると、気候という自然現象が、そこに暮らす秋田の人たちと交じり合って、おいしい食材を生み出す。自然と敵対するのではなく、自然をうまく生かし、自然と共に暮らすことで、秋田のおいしい料理が生まれてきたことがわかる。そうした先人たちが育んできた秋田のごちそうは、秋田で食べるからおいしい。そんな当たり前のことを感じて欲しいと思う。
秋田の言葉は気候と共にある。秋田弁で秋田の風景とおいしさを味わって欲しい。きっとおいしさが倍増することだろう。
【おまけ】
最後に若い方に秋田弁を少々ご披露すると、
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どの年代までご理解いただけるであろうか。
秋田弁は難しい。何を言っているのかよくわからないという声を聞くとき、しめたと思う。言葉の意味を伝えるきっかけになるからである。言葉の意味や由来を考えることは、おいしい料理のスパイスとなり、味に深みを与えてくれることだろう。
現在「昔話」を話せるお年寄りが急速に減っているため、失われる前に、急いで「昔話」を収録する運動が進んでいると聞く。
一言一句聞き漏らさず、咳払いまで話したとおりに復元する。もちろん方言のままで。素晴らしい取組みである。
こうした取組みを参考に、失いつつある「秋田弁」を後世に伝えるため、何ができるか、考えてみたい。あの面白かった昔話をもう一度聞いてみたい。
時間は余りない。早くしないと、おいしい郷土料理を作れる人たちがいなくなってしまうし、秋田弁をしゃべれる人たちがいなくなってしまう。