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経営随想

秋田の再生と「秋田-湘南プロジェクト」~ヒト・コト・モノのつながり~

加藤 真一
(「ナマハゲの里!!活発男鹿」食のモデル地域協議会 会長)
 30年暮らした湘南・藤沢から帰郷して7年目。秋田県の人口は、ついに100万人割れが目前に迫っている。18才で上京し、大学紛争の真っ只中で大学時代に「地方自治」をテーマに選んだ人間の現在までの足跡を述べてみたい。
 この停滞する秋田を元気にしたいと構想した「秋田-湘南プロジェクト」が中心である。
 小学校5年生の時の担任が言った「君たちは米と石油の二つの採れる田んぼを持った秋田県に生まれたことを誇りに思え!」を思い出す。私が小学生だった昭和30年代は、本県人口が135万人とピークであり、秋田国体が盛大に開催され、川反は連夜の賑わい、銀行の役員をしていた母方の祖父は、毎日接待漬け、私には酒の飲み方を教えてくれた。秋田駅前には鎌田の酒まんじゅうの香りが漂い、金座街には人々がごった返していた。木内デパートのレストランでお子様ランチを食べてから屋上の観覧車に乗って見下す広小路には車と人通りがあふれていた。
 ’69年3月に高校を卒業して上京。東大安田講堂が全共闘に占拠されて、東大入試が中止された年である。上野駅から山手線に乗り込んだら、いきなりゲバ棒を握りヘルメットを被りタオルで顔を覆った学生の一団が乗ってきて、窓のシャッターを次々と降ろした時は、ハイジャックされたかと驚いた。バリケードの中をくぐり抜けて受験会場に入り、タテ看板の立ち並ぶキャンパスからアジ演説する声を聞きながら入試問題に向かった。大学に入ってからも、講義中、ヘルメット学生が乱入して授業は中断、その後休講になることは日常だった。手には羽仁五郎の『都市の論理』、脇には『朝日ジャーナル』か『現代の眼』をはさみ、「反体制」「自己否定」「ナンセンス!」と声高に叫びながら大学近くの喫茶店で一杯のコーヒーを飲みながら議論する毎日だった。「君は三島由紀夫と東大全共闘の討論集会をどう考えるか?」と聞かれても、地方高校出身の私は、ただオロオロするばかりであった。
 中断する大学の授業の合い間、哲学者の鶴見俊輔や作家・小田実、そして師匠ともいえる在野哲学者の久野収氏らが主催する市民講座に足繁く通った。夜は東大自主講座=宇井純助手が主催する『公害原論』にも顔を出した。水俣病が社会問題になっており、熊本県から水俣病と認定された川本輝夫さんの訴えは、まだ良く覚えている。講師として荒畑寒村氏も登壇したことがあった。そんな中でも、大学の篠原一教授「政治学」はサボルことなく受講した。テーマは「地方分権」だった。中央集権に対する地方自治は地方出身の私には、身近な問題であり、講義が終わってからも、篠原教授とは話し合うことが多かった。’70年代、神奈川県には長洲一二県知事が誕生し、横浜・飛鳥田市長、川崎・伊藤市長、鎌倉・正木市長、そして藤沢市には38才の最年少市長の葉山峻氏が選出された。
 「反体制」を叫びながらも、就職を迎える大学4年生になると長い髪をバッサリ切って、大企業に就職して行く諸先輩には違和感を抱いていた。しかし、それは当然、自分にも突きつけられる問題である。高校の同級生で首都圏の大学へ通っていた友人は長男だった者のほとんどが秋田県内に帰り、県庁・市役所・銀行マンになっていった。私自身もこのまま東京に残るか、秋田に戻るかの選択に迷っていた頃、恩師の久野収氏に就職問題について相談したことがあった。丸メガネをかけて飄々と語る老哲学者の話は、今も忘れられない。
 「就職には三要素がある。一つは経済度。二つは安定度。そして三つ目が自由度だ。日本社会では、この自由度が問題なんだよ!」と。
 大学のゼミ担当だった篠原教授からは「加藤君、地方自治を学ぶなら藤沢へ行け!」と後押ししてくれた。篠原教授から葉山市長に一通の手紙を書いて頂いた。これが、藤沢行きのきっかけとなった。「市民参加」「住民自治」のスローガンを掲げて葉山市政は六期=24年間続いた。この間、葉山市政のブレーンの一人として教育行政への提言をする機会を得た。
 葉山峻氏は、地元の大地主の生まれだが、戦後の農地改革でほとんどの土地は解放された。湘南高校では作家・石原慎太郎と同期生であったので、慎太郎氏はどんな高校生だったか尋ねたことがある。「彼は逗子からの越境入学生で、美術部に入っており、大人しく目立たない人物であった」が印象だった。
 この葉山市長の後援会長は、同じ藤沢に住む映画監督・大島渚である。時々、葉山邸に集まっては、さながら「朝まで生テレビ」と同様、あの大きな声でスタッフと天下国家を論じる場面が多々あった。奥様で女優の小山明子さんは、いつも和服姿であり、私にはとても眩しく見えた。
 30才で結婚した妻の父は、日本興業銀行の役員をしていた。中山素平の直系である。妻の実家で盃を交わしながら食事を共にする時に、よく言われた話がある。「定年になり、暇が出来たから趣味を持とうと思っても、その時は遅い。40代から定年後に何をやりたいか考えておくことだ」。これも第2の人生=シニアライフの在り方としての提言であった。
 母親が’09年に亡くなり、父親の介護のために定年前退職して男鹿に帰郷。その疲弊ぶりには驚いた。18才で上京した時、5万人ほどいた人口は3万人を割り込もうとしていた。
 「男鹿の焼きそばを広める会」の街おこし隊長を手始めに食と観光による地域活性化に本格的に取り組むことになった。
 ’13年、秋田県や男鹿市、地元の農協、漁協、観光協会などを巻き込み官民協働で地域振興を手掛ける「『ナマハゲの里!!活発男鹿』食のモデル地域協議会」を設立した。地域食材の利用拡大を支援する農林水産省の育成予算に応募して1千万円の補助金が出る事業に採択された。
 徒手空拳で「ゼロ」からスタートした「秋田-湘南プロジェクト」は、ようやく具体化に向けて一歩を踏み出すことが出来たのである。
 この事業の目的は、地産地消と地産外消の基本理念に、いかにして本県の豊かな農産物や水産物を県内外に販路拡大をするかである。
 それも「首都圏に売り込む」という漠然としたものではなく、私の場合、ターゲットは30年暮らした湘南・藤沢である。藤沢の人脈と秋田の食・観光の地域資源をつなぐこと、この強みを最大限生かすことであった。
 先ずは、江の島が近い鵠沼海岸商店街から「真夏のナマハゲ」を八月の夏祭りに演って欲しいとのオファーがあった。お盆の時期、八月の湘南でナマハゲを演る人はなく、結局は、私がナマハゲを演ることとなった。真夏の湘南で、面を被りナマハゲの装束を身にまとい、汗ダラダラで会場を練り歩くのは、シンドイ作業ではあったが、予想を上回る親子連れが集った。
 本来、ナマハゲは大晦日の行事である。真夏のナマハゲとは邪道とも思えたが、鵠沼海岸商店街が主催する真夏のナマハゲの熱気は高まる一方だった。
 この体験が、第一回「秋田の食&観光フェアin湘南」のヒントとなった。江ノ電の車内にナマハゲと市女笠姿の小町娘を乗せてのPR。
 開催の前日、藤沢市役所の広報課に記者会見のセッティングを要請したものの、「何人の記者が集まるかは保証出来ませんよ」の返事。大きなナマハゲのポスターを背に一人で待っていると、この日の担当記者と大手2社の記者が集まってくれた。3人の記者は、この企画に興味を持って翌日、大きく紙面に掲載。さらには隣のデスクで賑やかな記者会見を聞いていたNHK記者から現場取材の依頼が入り、江ノ電車内を練り歩くナマハゲと小町娘が、夕方の首都圏ニュースのトップで報道された。このニュースを観た人たちが二日目に江ノ電藤沢駅に駆けつけ黒山の人だかりとなった。この「秋田フェア」は今年1月21、22日の両日に第4回目として開催され、今回は国内外で人気の秋田犬も「初参加」し、写真撮影を求める親子連れなどの輪ができた。ヒト・コト・モノとの交流をめざす「秋田-湘南プロジェクト」としては、箱根駅伝の合同応援会もその一つである。たまたま藤沢の知人、友人には早大OBが多く、今や正月の国民的行事ともなった「箱根駅伝」を雪国秋田の人たちはコタツの中に入ってTV観戦がほとんどである。これを、三区を走る藤沢で合同応援するとの企画が浮上、秋田稲門会の幹事長・佐野元彦氏に持ちかけたところ、二つ返事でOK!去年の1月2日、佐野幹事長はじめ4名が来藤、秋田の銘酒の数々が寄贈され、初春の宴は大いに盛り上がった。夏には秋田の竿燈まつりに藤沢稲門会の皆さんが来秋、この1月2日にも2回目の箱根駅伝には藤沢市長も参加され、藤沢と秋田との行政的なつながりについても話を頂いた。
 最後にこの「秋田-湘南プロジェクト」の物語として「浜辺の歌」がある。北秋田市出身の作曲家・成田為三の代表作である「浜辺の歌」が、JR辻堂駅開設100周年記念事業として発車メロディに使われることになった。この歌の作詞家の林古渓が幼少期を過ごした藤沢市の辻堂海岸の情景に思いをはせて作ったとされる詩に為三が曲をつけたものである。去年の11月27日の記念イベントには北秋田市の児童、生徒が出演し、地元の合唱団と「浜辺の歌」の合唱を披露した。
 式典イベントの前日、湘南の海で歌いたいという北秋田市の子どもたちの伸びやかな歌声が穏やかな波が打ち寄せる夕暮れの辻堂海岸に天使の歌声として響き渡った。
 北秋田市と藤沢市は、この歌を通じた交流をきっかけにお互いのつながりを深める考えである。
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