トップ機関誌「あきた経済」トップ親父の背中と私の履歴書

経営随想

親父の背中と私の履歴書

山岡 緑三郎
(山岡工業株式会社 代表取締役社長)
 平成23年(2011年)3月11日午後2時46分東日本大震災が発生して、6年の歳月が経ちました。当時、私が会長を務める一般社団法人秋田県産業廃棄物協会では、隣県の被災地の復旧、復興への支援が可能な状況であり、一刻も早く組織的に活動できる態勢づくりをしなければと考えていたところ、平成23年5月23日、当協会宛て、秋田県から文書にて「東日本大震災に関わる災害廃棄物の処理等の協力について」の要請があり、会長、副会長で協議の上、県とともに災害廃棄物の処理に関する支援を積極的に行う基本姿勢を明らかにしました。
 平成23年6月13日、県と協会による「秋田県災害廃棄物処理支援協議会」が設立され、会議当日は数多くの報道機関が高い関心を寄せる中、協会からは会長、副会長、県北、中央、県南の各支部長が構成員として参画し、災害廃棄物処理支援の計画案や具体的な役割分担等を協議しながら、ともに支援活動を推進することを改めて確認しました。後にこの協議会は、災害廃棄物の収集運搬を県から受託する際の「災害廃棄物運搬業務委託の受注候補者の推薦」を行う機関としても位置づけられました。
 平成23年7月上旬、他県から高濃度の放射性セシウムに汚染された一般廃棄物焼却灰が県内に搬入されたことが明らかになり、他県から搬入される廃棄物に対する放射能汚染の懸念が大きく広がりました。県外からの廃棄物イコール放射性物質への懸念という風潮が根付いてしまい、災害廃棄物処理支援に関する動きも他県からの廃棄物の括りで同じように扱われるようになり、それまでの動きが停滞してしまいました。
 しかし、9月に入り、住民や関係行政機関、業界等の努力により災害廃棄物は、放射性物質に汚染されたものではないという理解が深まったほか、安全の確保に関する検討も行われ、安全を確認した上で、岩手県の災害廃棄物の受け入れを改めて検討する旨を表明。10月には、岩手県の担当課長が来秋し、「岩手県災害廃棄物処理詳細計画」の概要の説明と、広域処理の推進に係る具体的な要請があり、平成24年2月7日には、秋田県と岩手県の間で、「災害廃棄物の処理に関する基本協定」が締結され、翌3月に大仙市長が、県内市町村で初めて災害廃棄物の受け入れを表明し、大仙美郷環境事業協同組合クリーンセンターでの焼却が始まりました。
 秋田市では、平成24年5月18日から4日間にわたり、総合環境センター溶融炉施設にて災害廃棄物の試験溶融が行われました。9月4日から1日70トンの広域処理が、積載量25㎥~35㎥車両8台編成により実施され、翌25年3月19日まで約5,900トンの受入量となりました。その後、横手市東部環境保全センター、本荘清掃センター、湯沢雄勝広域市町村組合等で広域処理が実施され、約10,000トンの災害廃棄物を焼却、溶融しました。
 また、不燃混合物の広域処理についても、平成25年12月から仙北市田沢湖一般廃棄物最終処分場において、4,000トン、25年4月22日から12月18日まで秋田県環境保全センターにおいて23,000トン余りの処理支援を行うことができました。
 岩手県沿岸北部4市町村の災害廃棄物の秋田県への受入量は、合計で38,000トンとなり、秋田県産業廃棄物協会が関わった広域処理の全般を顧みますと、平成24年3月26日の大仙美郷環境事業協同組合での試験焼却から、翌25年12月18日までの県環境保全センター及び仙北市田沢湖一般廃棄物最終処分場での不燃混合物の受入までの約1年9か月の間、大きな事故等がなかったことが何よりでした。災害廃棄物処理支援という被災地の復旧、復興に会員一丸となって関与できたことに、秋田県生活環境部、秋田市環境部はじめ災害廃棄物を受け入れていただいた市町村、収集運搬を担ってくれた協会会員企業にここに改めて感謝の意を表したいと思います。
 昨年、11月11日に公益社団法人全国産業廃棄物協会からの推薦により、環境大臣表彰をいただきましたが、私の功績というよりは、協会員の代表として頂いたものと、関係者の皆様に心より感謝とお礼の思いでいっぱいです。

 昭和53年11月24日に、父山岡脩朋が清掃事業功労者として、厚生大臣表彰を受賞しましたが、残念ながら同年4月26日に脳内出血で倒れ、左半身不随という病魔に襲われ、当時29歳の私が代わりに東京に表彰状をいただきに上京しました。それから早いもので39年、山岡工業、関連会社の経営者として現在に至っております。
 私は、昭和23年10月に秋田市に生まれ、父が起業していた山本郡八峰町(旧八森町岩館)で幼年期を5歳まで過ごしましたが、父は事業に失敗しやむなく夜逃げ同然に、母の父(秋田市すずらん通り、渡邊印舖店創業者)を頼って、28年に同市茶町梅の町に移り住みました。その後、当時の秋田いすゞ自動車の支援を受けて、黄金社という汲み取り清掃業を起業し、32年秋田市川口境に母の父からの支援を受け、秋田衛生興業を設立、40年、山岡施設工業を設立、50年に現在の山岡工業に商号を変更しました。

 物心がつく頃から、父親は、大変厳しく、いつも怒られてばかりだった思い出しかなく、遊んでもらったこともほとんど記憶にありません。昭和42年高校を卒業するまでの父の記憶は、毎日、夜中の2時頃帰ってきて、ご飯を食べ、4時には会社に出ていく姿しか浮かんできません。大学への進学以降は、父の思い通りの道を進むことになり、46年の就職の際も上下水道の設計事務所への就職を勝手に断わられ、鋳鉄管製造企業の工事部へ入れられた時には、さすがに父を恨んだものでした。しかし、結果的には、50年10月まで、上水道本管の工事監督、そして経験を積み、各種資格も習得し、結婚し2人の子供と共に秋田に帰ってきたときは、スムーズに会社の仕事に入っていくことが出来ました。まさに、おやじの見立て通りだったわけです。
 昭和53年4月に父が脳内出血で倒れてからは、西も東もわからないままに経営という仕事を引き継いでいくしかなく、何度天を仰ぎ、己の不遇を呪ったことか。夜は眠れず、深酒して体を壊すという定番の道を歩むことになりますが、「習うより慣れろ」とはよく言ったもので、3年も経つとどうにかやっていけるようになりました。
 その頃、薦められるままに秋田青年会議所に入会しました。昭和58年全国大会を秋田市で開催することになり、私の役目は、記念事業委員長で、事業のテーマはたしか、「北緯40度発、大地のやさしさに魅かれて」であったと思います。何を企画したらいいのかも分からず、当時、父の尊敬する政治家の石田博英先生のご紹介で、御長女様のご主人である三宅外務省情報文化局長をお訪ねし、そのお声掛けにて赤坂の国際文化協会を紹介していただき、事業計画を立案しました。なんと、恐れを知らず、世界の美女の祭典、ミスインターナショナル世界大会に参加する、46か国の代表を秋田にお迎えするという企画を理事長の了承もなく決めて、秋田に意気揚々と帰ってきたら、勝手なことをしたと怒られるは、怒鳴られるはで大変でしたが、何とか承認してもらい、2千万円で契約を結ぶところまで辿りつくことが出来ました。当時、ミスコン出場者を地方に呼ぶということは、例がなく、成田から直接、秋田空港に入るルートでお呼びしたわけです。その当時の佐々木喜久治知事、高田景次市長、秋田テレビ社長を表敬訪問し、オープンカーが無いので、オフロードカー(ジープ)に世界の美女らをのせて秋田駅前、広小路、中央通りをパレードしました。鉄板の上にハイヒールを履いて立っているので、転びそうになり、運転者の頭は、たたかれ放題。美女のこぶしは痛くなく、顔は緩みっぱなし、旧市立体育館での小学生低学年との小運動会は、初めての外人さんに、泣く子続出という状況でした。また、赤い羽根共同募金では、ミスインターナショナルの美女軍団による積極果敢なる募金活動の力は絶大で、わずか30分で14万円ほど集めることができました、いまでは本当に良い思い出になっています。開催期間の4日間、来秋した全国の会議所メンバーはほとんど帰らず、経済効果が数億円あったとか?

 平成2年、秋田市御所野湯本2丁目1番5号に新社屋落成、創業40周年記念祝賀会を開催し、新たなるスタートを切ることになりました。その後、平成10年をピークに秋田県の公共事業費は、右肩下がりとなる状況になっていきます。そこで弊社は、柱となる事業を上下水道関連業種に絞り込みました。建設環境部門(上水道本管工事、下水道管路調査・清掃・管更生、産廃工事)、管工事部門(空調・衛生設備工事)、水処理部門(公共下水道処理施設管理業務:北秋田市、上小阿仁村、藤里町、秋田市、大仙市、仙北市、美郷町、横手市、湯沢市、羽後町)、プラント部門(県流域下水道処理施設更新工事、県内市町村下水道処理施設更新工事、下水道処理施設改築工事に伴う仮設処理膜設置、脱水処理装置)、計4部門です。
 現在は、社員98名、社是:人のやれないことをやる企業、人のやらないことをやる企業やまおかの精神で、社員一丸となって安全第一で無事故、無災害を常に目指し、社員とその家族の幸せを大事に考える企業であり続けることを追求する経営を継続していきたいと考えています。
 秋田県の人口は、少子高齢化の影響もあり、100万人を割り、我々の仕事の中核というべき社会資本の更新業務が減少する傾向にあります。将来に危機感を持ち、展望を明確にした業務の再構築が必要と考えています。
 平成29年3月16日、県(建設部)を含む24市町村(25自治体)の代表佐竹敬久秋田県知事と、公益社団法人日本下水道管路管理業協会(管路協)長との間で、災害時復旧支援協定が締結され、県内の下水道管路の点検、維持管理の緊急時の対応ができる体制が整いました。私が管路協東北支部秋田県部会の部会長を務めている関係で、弊社が、秋田県の窓口となり支援協定遂行業務を担っていくことになります。
 秋田県の社会資本の維持管理を中心とした仕事を企業の柱として、今後も地域社会の発展に貢献するため、更に経営を充実させていきたいと考えています。

(会 社 概 要)

1 会社名 山岡工業株式会社
2 代表者 代表取締役社長 山岡緑三郎
3 所在地 〒010-1415 秋田市御所野湯本二丁目1番5号
4 電話番号 018-826-1616
5 FAX 018-826-1565
6 URL https://www.yamaoka-ind.co.jp/
7 創立 昭和26年6月(改組:昭和40年1月)
8 資本金 35百万円
9 年商 1,700百万円
10 従業員数 98名
11 事業内容 上水道本管工事、下水道管路調査等、空調・衛生設備工事、下水道施設管理等
12 社是 ひとのやれないことをやる企業、ひとのやらないことをやる企業
あきた経済

刊行物

お問い合わせ先
〒010-8655
 秋田市山王3丁目2番1号
 秋田銀行本店内
 TEL:018-863-5561
 FAX:018-863-5580
 MAIL:info@akitakeizai.or.jp