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経営随想

日本人にとっての「矜持」と「犠牲」

辻 卓也
(株式会社つじや 五代目)
 

 私は大曲の花火通り商店街で和菓子屋「菓子司つじや」の五代目としてお世話になっています。家族的営みであり、時論や経済を云々する者ではありませんが、せっかくいただいた機会ゆえ、地域のさまざまな街・人づくり活動に取り組んでいる中で、日々思っていることを忌憚なく文字に出来ればと思います。
 3月9日、福島県浪江町の警戒区域(無許可立ち入り禁止)を視察する機会をいただきました。「ご当地グルメで街おこし活動」を共にする浪江商工会青年部と浪江町の計らいで正式な許可を得たものです。
 近隣に逃れたメンバーや地元行政、原発復旧に携わる方々から現地の実情、そして先の見通しについて詳しい説明を聴き驚愕しました。なぜなら一般のマスコミが報道せず我々の知らないことがあまりにも多かったからです。うわさ話として巷に流れる誤報や無知の多さ。知らず知らずのうちに・或いは明らかに行われている差別や誹謗中傷の多さ。形だけが2年前のまま残る無人・無音の街は、分断された地域の悲惨さと住民の無念さに溢れていました。
 ここでは具体的に触れませんが、いまだに過酷な状況と犠牲となり続ける人々がいました。「人災」である原発事故・強制避難による「犠牲」を、津波による「被害」にすり替えようとする仕組まれた悪意では?とまで感じずにはおれませんでした。驚愕の極みです。
 ここで私は原発の是非を論じたいのではありません。ここ数年、私は日本人の二面性について考えることが多くなりました。「恕」と「矜持」、それに対する「無責任さ」と「犠牲」の相反する二面です。
 浪江町は『犠牲』という意味でまさに負の一面を背負わされているのです。

 ここ十数年にわたり世間には日本人の【性悪さ】ばかりが目立っていました。前述の『無責任さ』と『犠牲やむなしとする性分』に端を発したニュースに溢れていました。しかし震災以降、一年少しの間は壮絶な状況の中にも日本人の素晴らしさが際立つ光景や話をたくさん見聞きし、日本中がしばらく忘れかけた「恕」と「矜持」の心に充ち満ちていたように思います。
 ところがしばらく時が過ぎると、沈降して一時姿を隠していた性悪さが再び表舞台に顔をもたげてくるのです。
 性悪の一つは無責任さです。今日の世界では情報が多すぎて取捨選択する労力が必要です。またファクター(因子)が多すぎて、しかも複雑に絡み合い、物事を議論し、前進することが難しくなりました。故にでしょうか、政治やマスコミも「衆愚をかく導くべき」と、感情的に相反する二極の対立軸の構図へ、意図的に引き込んでいると思える事象が多くなりました。二者択一の選択で思考停止に持ち込もうとしているとさえ思います。さらにWebの進化により「知らしむべし」とこれまで隠されてきた断片も垣間見ることが増えたため、私を含めた凡夫でも普通に考えれば「明らかにおかしいよね」と思うことがとても多くなりました。クロスオーナー制(新聞とテレビの両のオーナー)を容認されている日本の大手マスコミの弊害が如実に表れていると思います(日本のマスコミの情報公開度世界ランキングが劇的に下がったことが実例でしょう。欧米ではクロスオーナー制は禁止)。国の発表や、全国的なニュース報道でさえも、その裏側まで想像しながら報道各社の本音を探り・読まねばならぬ時代になっているという事は作家の曾野綾子さんが自身の連載エッセーをまとめた『夜明けの新聞の匂い』でも鋭く指摘されています。
 しかしながら政治とマスコミを断罪できないのは、我々国民も衆愚になり下がっているからでしょう。選挙に於いて政権交代を喜んだと思えば直ぐにこき下ろし断罪し、引きずり下ろす。政党を支持したこと、自らが選択したことの責任は放棄し知らぬ素振りで次の対象をもてはやす。公的サービスに於いては自らの要求が通らねば恫喝する。四季が巡り変わる日本人は時間の感受性が他国民とは異なると山本七平氏は述べていますが、時間軸を分断して都合の良いように解釈し、都合の悪いことは忘却しても良いという癖が染みついているのでしょうか。冬が過ぎれば必ず再生の春が来ると信じ込んでしまっているのです。
 社会保障の問題がなかなか進まないのも、そのシステムの複雑さを理由に、決定権を持つがババを引きたくない為政者と、自分の不利益を認めたくない世代が、はたして次の世の中を支える子供達世代に責任を持ってバトンタッチしていけるかを考えていないからではないかとさえ思えてしまいます。国民の無責任さ、要求過多の『恥』もない状況に、古代ローマ末期の皇帝が国民の要求に応えるため人間とライオンを闘わせた愚行を重ね合わせずにはいられません。
 もう一つの性悪さは『犠牲』です。政府が4月28日のサンフランシスコ講和条約の締結日に記念式典を開催すると報道され、個人的に嬉しく思っています。敗戦ではなく、終戦という言葉へ故意に置き換えて、けじめをつけないまま復興と経済発展を優先し勝ち取った現代ゆえ、矜持を取り戻し、けじめをつける一助になるでしょう。調印した先人の功罪を云々するのではなく、あくまでけじめの有無としてです。しかしサンフランシスコ講和条約の締結日は則ち、日本が沖縄を犠牲としてアメリカに呈した日であることも一方で絶対に忘れてはならないはずです。
 敗戦・占領を経て国家としての独立を勝ち取った『矜持の日』は、同時に『犠牲を決めた日』でもある二面を持つというのが実際の歴史であり現実です。
 現に沖縄県からは『屈辱の日である』と困惑と怒りの声が多数上がりました。
 矜持と犠牲、二つのものを同時に抱え込んだ日であることを、当時その選択をした日本人の苦悩を、さらに沖縄の犠牲をやむなしとして今日の繁栄が築かれたことを、私たちはしっかりと認識しなければならないのだと思います。
 日本人は形式上、単一民族国家であり且つ島国であるため、内部に弱いもの・劣る者を見つけ出して差別することで自分自身の地位を確保し、優位性を知らしめ、集団の安定を図る手法を、DNAに刻み込まれるほど長い年月をかけて養生してきた国民であると教わりました。人種・民族が入り交じる欧米のように血筋や人種による優劣を付けるのではないので、自然と陰湿になりやすかったのでしょう。ゆえに沖縄にしても、原発にしても、『一部の犠牲』をはらうことを『やむなし』、『可』として目をつぶってきたのです。この犠牲を可とする性悪は、歴史上の各所に存在します。地域に於いて、友人知人間の小なることでも同質を探すのは難しくありませんので、日本人の本性から簡単に拭い去ることはできないのでしょう。
 本来、世界の中で日本人を日本人たらしめてきた重要な根っこは『恕』の心なのだと教わりました。『恕』とは則ちトレランス(許容)とシンパシィ(共感)。1999年に和辻哲郎文化賞を受賞した渡辺京二氏の著作『逝きし世の面影』に記された江戸から明治にかけて日本の地方の姿は、『恕』の心に満ちあふれ、それがあたかも空気のように人々の間に存在していたことが分かります。
 戦後の経済成長優先で日陰に追いやられた日本人の『恕』の心は、震災を機に一気にあふれ出し、日本の空気となりました。無くしてしまったのではなく、日本人はちゃんと奥にしまい込んでいたのです。『逝きし世の面影』で欧米人が驚愕し、賞賛した日本人の『恕』の心です。
 我々世代が受け継いだ日本人の二面性の悪い方だけを切り捨てることは困難を極めると思います。シンパシィのアンテナ感度を高く上げ、許容域を広げながらも、肥大した負の部分を私たちがどれだけ無くして次代に手渡して上げられるのかが問われています。すり減ってしまった『恕の心』と『矜持』をどのように育み直していくか。確固たる処方箋も見えていませんが、常に日々思考停止に陥らぬよう意識して自分への戒めとします。

(会社概要)

1 社名 株式会社つじや(屋号:菓子司つじや)
2 代表者名 代表取締役 辻 久男
3 所在地 〒014-0024 秋田県大仙市大曲中町1-20
4 電話番号 0187-62-0494
5 Fax番号 0187-63-8500
6 創業年 大正3年
7 資本金 100万円
8 年商 6,000万円
9 従業員数 7名
10 事業内容 和菓子製造販売
11 主要商品 五代続く伝統的な郷土菓子である「とうふかまぼこ」と「三杯もち」を作り続けています
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