経営随想
会社の経歴を振り返っての雑感
(三光テクノ株式会社 代表取締役)
会社の寿命・人間の寿命
当社の現在の社名は三光テクノ(株)といいますが20年前迄は(株)三光商会という名称でした。現在の営業内容は建設業です。更にその20年位前迄は同じ社名で電気製品の卸販売を中心として、同時に若干の工事も手がけておりました。いずれにしましても商売の内容を見ますと地味な印象を受けますので一般的にあまり馴染みのある会社とは言えないかもしれません。
創業が昭和21年、会社設立が昭和23年ですから会社の年令もそろそろ70才に手が届く処まで来ました。振り返って見ますと、よくぞここまで長く続けて来られたものだと感慨深いものがあります。人の場合は70才を古稀といいますが会社の場合は?。人の寿命は最近どんどん伸びて来て80才90才でも元気な方は沢山いますし、百才以上の長命の方も珍しくありません。時々会社の寿命は30年とかいう話を耳にしますが、その事を云い出した方(文筆家だったと思います)によりますと、寿命が30年という事ではなく何十年と長く商売をやっていても活発に営業されている期間は30年位だろうというのが真意の様です。そういうことを考えますと、会社も法人といいますから人と同じ様なものかなと思います。80才90才の会社も沢山ありますし、秋田県の場合、創業100年以上の会社も300社近くあります。もっと古い伝統のある法人も数多くあります。会社の場合は経営者・社員が交代しながらですから人より長い生きしても成程というところでしょうか。
会社の営業内容
さて私共の会社の営業内容は建設業に入りますが、その中の電気工事業・機械器具設置工事業・管工事業・水道施設工事業という工種になります。そしてどういう方面の仕事かと云いますと、農業関係の揚水機場・排水機場、上下水道関係の浄水場・処理場・ポンプ場、工業用水道関係のポンプ場等々の機械設備・電気設備の工事の仕事を中心に行っております。又それらに係る修理・維持管理の仕事もしております。デパート・スーパーマーケット・ホテル・学校等々の空調・冷暖房の仕事であれば身近に見られますから分かり易いと思いますが、私共の仕事はあまり目に触れる場所にないものですから想像しにくいかも知れません。冒頭に書きましたが、こういう業態になってから凡そ40年になります。
会社創業の頃
会社を創業したのは父ですから父の事に触れたいと思います。父は戦前学校を卒業してから茨城県にある日立製作所の多賀工場という所に就職しました。その地域はその10年位前から日立の関連工場が数多くある場所でした。工場では検査技師として12~13年の間勤務しましたが、終戦後退社し田舎に戻って商売を始めた次第です。検査技師として10年位しか勤めていないのに独立して商売を始めるなんて、と今ではそう思いますが、戦後のあの当時は何かをして家族を養って行かなければという時代だったでしょうし、そういう思いで会社を立ち上げた人も沢山いたのだろうと思います。数年してからやはり日立の別の工場に勤めていた弟も入社(?)しましたので支えになり励みになったと思います。
商売を始めた当初はお客様(多分農家の方が多かったと思います)からモーターの注文を貰い、工場迄それを受け取りに行き、お客様に届けるという事も多々あった様です。戦後すぐですからそういう事も当たり前の時代だったと思います。数年間の商売の実績が認められ、又工場勤務時代の上司・同僚の方々の応援もあり昭和二十年代半ばには特約店の承認を貰う事が出来ました。
特約店の統合
昭和三十年代に入り家電製品の売り上げが徐々に伸びて来ましたが、それと同時に各メーカーの販売競争が激しくなりつつありました。各メーカーとも地域の代理店・特約店を指導・援助してもなかなか安心していられる状況ではなかったと思います。その為に各メーカーとも地方の販社を統合してメーカーが直接営業・経営に乗り出すという時代に入りました。私共の会社も時代の流れに合わせて、又メーカーの方針もあり家電部門の営業担当者十数名を家電関係の新会社に移籍して貰うという事になりました。昭和35年頃の事です。
その後重電機を中心として電線・化成製品・住宅用設備機器・電動工具等々日立製作所の製品を中心に販売品目の拡張・新規分野の顧客の開拓等を進めて来た事もあり、家電製品の売り上げがなくてもある程度の売り上げが確保出来る様になっていたかと思います。この頃には現在の仕事の大黒柱になっておりますポンプ関係の工事の仕事を徐々に始めておりました。家庭で使う井戸ポンプの据付工事、農業用の灌漑用揚水ポンプの据付工事です。メーカー自体が家電から重電機等々の電気製品・機械製品を作っている総合電機メーカーという事もあり、私共の扱える製品の種類も巾広かったという事から、この分野の商売もある程度の実績を残せたのだと思います。
しかし時代が進んで来ますと、重電機の分野も家電の場合と同じ様にメーカー同士の競争も激しくなりますし、全国的に営業を展開していますと地域の特約店に委せていては他社におくれを取るという事が懸念される様になります。こうした時代の流れの中で秋田県と青森県の特約店を一つにまとめるという計画が持ち上がりました。まず青森県の特約店を一つにまとめ、秋田県の二つの特約店を結びつけるという事になりました。
結局当社の場合は仕事の内容が卸販売の部門と工事の部門にスミ分けし易かったものですから、当社を二分するという事に落ち着きました。社員の数が60人程でしたが丁度半々に分かれる事になりました。この分割が昭和47年の事で、この計画が持ち上がった時私は東京近辺の特約店におりましたが父から呼び戻された次第です。
タイミングの良い時期に戻って来たものだと思います。会社の分割・社員の移籍と一連の流れを目の当たりにする事が出来、多くの関係者を知る事が出来ました。おまけに合併して出来た新会社に1年半という短い期間でしたが、そこに籍をおいて我社を外から見るという貴重な経験をする事が出来ました。
こういう形で会社が二分してから丁度40年位になりますが、会社の創業以来二度三度の節目があった次第です。
父の信条
以上書きました様に創業して20~30年経ちますと、会社の営業内容が周囲の状況・時代に合わなくなるのは止むを得ない事でしょうし、人の気持・考え方も仕事や時代に合わなくなるのも当たり前かも知れません。商売の仕方・考え方・中身をその折々変えて行ければいいでしょうが、それも思う程簡単な事ではないでしょう。しかし人との付き合いを大事にし、人から与えられる情報なりを大事にするとかいう事で何かしら次の方向が見えてくるものでしょう。考えて見れば父もメーカーの方々との付き合い、地元の商工業者の方々との付き合いで沢山得るものがあった様です。
父が昔から自宅に掛けていた額が二枚あります。「誠」と「至誠通天」というものです。そして会社にも「以和為貴」というものがあります。三枚とも昔勤めていた会社の役員の方々から頂いたものです。いずれもどこかで見掛けるものですが、父の人との付き合い方、仕事に向き合う気持が分かる様な気がします。
おわりに
全国的に人口減少の時代に入り秋田県もここ10年程毎年1万人の人口減で、あと10年もしないうちに100万人を割るという状況です。人口減少が商売だけでなくいろんな方面に様々な影響を与える事は間違いないでしょうが、経済・産業の規模が小さくなっても、工夫しながらでも商売が続けられればと願う次第です。
偶々随想を書く機会を与えて頂きましたので日頃なんとなく思い浮かんでいた事を継ぎ足しになりましたが書かせて頂きました。ありがとうございます。
(会社概要)
1 会社名 | 三光テクノ株式会社 |
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2 代表者名 | 代表取締役 赤坂栄紀 |
3 所在地 | 〒010-0966 秋田市高陽青柳町1-56 |
4 電話番号 | 018-823-3111 |
5 Fax番号 | 018-823-3112 |
6 設立年月 | 昭和23年4月 |
7 URL | https://sanko-techno-kk.co.jp/ |
8 資本金 | 2,000万円 |
9 従業員数 | 25名 |
10 事業内容 | 農業用揚排水機場、上水道・簡易水道用浄水場、下水道用処理場・ポンプ場、工業用水道場の施工及び保守管理 |
11 営業所 | 大館営業所、青森営業所 |
12 特約店契約 | 株式会社日立製作所 |